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2018年3月12日

病弱教育巡回訪問指導員をして知った行政

 

 

 

 平成9年4月、滋賀県で全国初の試み、病弱教育巡回訪問指導の制度が始まりました。

 4月1日からの採用と聞いていましたが、全く連絡もなく、詐欺にでもあったような状態でのスタートでした。

 

 滋賀県教育委員会学校教育課障害児教育室(現在は特別支援教育室)に籍をおく非常勤講師になります。

 4月半ばに任命式はありましたが、仕事も連絡もなく・・・不安な日々を過ごしていました。

 4月末、ようやく病院にあいさつ回りに行くと連絡があり、障害児教育室の方と一緒に、大きな病院をまわりました。

 なぜ、4月1日採用なのに、1ヶ月間仕事がなかったかというと、4月に入ってから、議会の承認を得られ、それから、各学校へ通知し、病院に新制度の説明に行くことができたのが、月末でした。

 とりあえず人員だけ先に確保したということです。

 

 非常勤講師なので、お給料は1ヶ月遅れです。

 しかも、最初の1ヶ月は仕事がなかったので、2ヶ月間収入は ほぼゼロです。

 私は、前年度も非常勤だったのと、他に仕事をしていたので、まだよかったですが、それでもひどい扱いです。

 仕事の不安もあり、暇をもてあましたこともあり、勤務していた学校に顔を出しては、現状をぼやいていたら、教職員組合員の方が動いてくださいました。

 月15日、年間180日勤務と任命書にはありましたが、仕事がなかったときの保障もなく、4月は15日勤務といっても、2日とか3日しか勤務していないので、残りの13日分は消えてなくなってしまいました。

 5月に入っても仕事があるわけでもなく、これはひどすぎると交渉していただいて、1年間通して180日、仕事のあるときに多く働けるようにしていただきました。

 

 病院にあいさつ回りをしたので、病院からの紹介で、数件の申請がありました。

 最初に、入院した生徒の学校で病状、学習の進度予定を打合せします。

 そこで、校長先生、教頭先生とお話ししていると、こんな制度があったんですね、知りませんでしたと言われました。

 県教委に言うと、年度初めに、校長会、生徒指導主任などの研修で、他の制度の説明と一緒にちゃんと説明していると言われました。

 1年目だから仕方ないと思っていましたが、10年経っても同じでした。

 せっかくいい制度ができても、知らずに使えない子どもたちが多いです。

 意識の高い病院の看護師長さんは、どんどん使ってくださったので、病院の協力がなかったらどうなっていたかと思います。

 

 滋賀県を中学生は、北部と南部、小学生は、北部、中部、南部にわけてチームで動きました。

 南部は仕事があるけれど、それ以外は仕事がなかったり、少なかったり、仕事がない方が病人やけが人がいないのでいいのですが、厳しい仕事でした。

 私は、北部担当でしたが、仕事が少なく、最初に南部の担当だった公立甲賀病院を南部の先生にゆずってもらいました。

 たまたまでしたが、これが大きかったです。

 看護師長さん、小児科医も、熱心で協力的でした。 

 小学生は院内学級がありましたので、その一部を中学生用の教室にしていただけました。

 1人に対して1時間だったので、言われたことだけやっていればよかったのかもしれませんが、病院からの要望もあり、子どもたちを教室に集め、時間の許す限りみていました。

 勤務先のない私たちにとって、居場所ができたことはよかったです。

 子どもが複数いる場合は、それぞれに教員がつけるので、教員同士の会話する時間もあり、救われました。

 

 それぞれが、それぞれの場所で教えているので、話し相手がいないというのは大変です。

 しかも、どこにだれが行くのか、スケジュールを調整するにも、電話で打ち合わせ、スケジュールが決まったと思えば、新しく生徒が入ったり、突然、退院したり、当時、携帯電話があったからよかったですが、電話代が数万円になることもあり、県教委になんとかしてほしいと言いましたが、どうにもなりませんでした。

 

 公立甲賀病院は、頑張った甲斐があり、次年度から中学校も院内学級ができました。

 

 子どもたちにとってはいいことですが、2年目以降の自分たちの首を絞めることになりました。

 仕事がない‼

 でも、だまっていては、何も変わらない!

 いろいろ要望を出したり、現場の声を伝えて、自分たちで仕事をつくっていきました。

 

 行政の表と裏、いろいろと知ることができました。

 自分にとって、貴重な体験でした。

 制度が周知徹底されないので、学校や病院をまわって、制度の説明に伺ったりしました。

 そんななかで、こういう仕事、楽しいなあと思ったりしました。

 何年たっても、先生たちには浸透しませんでした。

 今もどれぐらいの先生が知っているのだろうと思います。

 

 今思うと、制度ができた頃の障害児教育室の方たちは、思いがわかってくださり、さすが制度を作った方たちだったのかもしれません。

 10年経って、がんばっている自分がバカバカしくなり、滋賀の病弱教育がよくなれば・・・と思っていたのですが、そこには何もないとわかり、制度がはじまって10年で辞めました。

 1人あたり週2時間程度って書いてあるから、週1回2時間教えたらいい、それ以上のことをするなと言われるようになり、辞める決心がつきました。

 

 辞めた後も、医大の保護者の会の方たちの活動に参加し、できる限りの協力をしました。

 何年かたって、滋賀医大に中学生の院内学級ができた記事を見て、うれしく思ったものです。

 でも、主要な病院に院内学級ができるというのは、うれしい反面、指導員の方々の苦労があるのでは?と思います。

 

 移動も大変で、追われている毎日でした。

 ときどき、間に合わないっていう夢を見ます。

 午前中、長浜市で、午後は大津市とか、どんどんハードな条件になっていたので。

 途中から、高速道路を使っていいと許可をもらったりしました。

 どんどん上司に要求をし、自分たちで勝ち取っていきました。

 

 教職員組合は、会員にならないと動けないと言われ、最初は、私だけ入ってましたが、1年ぐらいで辞めました。

 

 結局は、自分で要求していくようになりました。

 

 やりくりをうまくしてくださっていたのだと思います。

 

 いい上司に恵まれたんだと思います。