2019年3月19日
はじめましてなちゅらるばらんすです。
ブログ訪問ありがとうございます。
私は、親の反対を押し切って大学に進学しました。
女に学問はいらないという考えでした。
商業高校をでて、就職して、数年して結婚というのが、親の考えでした。
何とか普通科の高校進学を許してもらいました。
高校の先生のすすめもあって、大学進学に向けて先生方のサポートのもと、大学に進学することができました。
父は、そんな高校で成績が良くても、大学進学なんて無理だと思っていたので、万が一、合格したら進学してもいいと言っていました。
ようやく大学進学したのですが、1年の前期でギブアップしました。
親に、大学を辞めたいと思い切って相談すると、反対されませんでした。
「やっぱり無理だっただろう」と思っていたのかもしれません。
でも、1年分の授業料を振り込んでいるから、1年だけ続けて辞めればいいと言われました。
辞めるつもりで、後期の大学に通いました。
結果的には、4年で卒業できました。
今から思うと、力が抜けていたから、うまくいったのかもしれないなあと思います。
甘い考えだったといえば、その通りかもしれません。
捨てた方がいいことって、多いと思います。
1番の原因は、通学時間が往復6時間近くかかることです。
1日の4分の1が通学時間だったのです。
受験は、親に車で送ってもらったので、高速で1時間ぐらいで行けました。
しかも、滋賀と岐阜は隣の県ですが、米原と大垣間の電車が1時間に1本!
北陸線から来ている子よりは、よかったですが。
しかも、早起きして行ってるのに、新岐阜駅から乗る大学行のバスに乗れないこと。
無理矢理にでも乗らなければ、乗れない・・・
結局、授業にギリギリ間に合うぐらいでした。
大学に行くだけで、疲れ果てていました。
ほとんどが寮生で、入学したときには、グループができていて入りづらい感じで、何とか自宅生と仲良くなって、まじめなグループに入りました。
サークルに入る余裕もなく、とにかく授業に出席するためにだけ通ってました。
大学って、もっとさぼるんじゃないの?と思っていたのですが、みんな休まず、まじめでした。
休んだ時のノートを見せてと言うと、復習とかするからダメって言われてしまい、前期の試験はボロボロでした。
テストだけは、ちゃんと受けました。
苦手な図工や体育も苦戦。
数学も、高校で理系だったのに、習ってない数学がけっこうあって、教科書をみかえすと、教えてくれてないこと多いことに気付いたり。
もう無理だ!って、3か月でギブアップ!
夏休みになると、父親が勝手に決めたアルバイトに強制連行のような感じでした。
冗談かと思っていたら、突然、朝、おばが来て、「今日、シフトに入っている」と無理矢理 車に乗せられ、連れ去られた!
わけもわからず、行ってみると、プールの受付のバイトでした。
事務所でおばと別れ、プールに行くと、受付2人、監視員が10人ぐらいいました。
高校のとき、理系だったけど、人数が少なかったので、文系+理系クラスで、2/3が女子でした。
大学でも、数学科だけど女子が2/3です。
いきなり男子の中に入れられ、お昼休憩は、監視員の中で食べなければいけなくて、何でこんなめにあっているのか?と思いました。
放置してくれていいのに、話しかけられるし、困ったのを覚えています。
運動音痴で、スポーツなんてって思っていたのに、まわりは体育会系の人ばかり。
教育学部だから水泳ができないといけないでしょ、と言われ、始業前に水泳を教えてもらったりしました。
中学校の時は、水泳の授業はさぼって、1度もやってませんでした。
高校の時は、休めないのでやってはいましたが、「泳げません!」と言い切って乗り切ってきました。
水泳から始まり、ボーリング、テニス、卓球、グランドゴルフと、いろいろ教えてもらいました。
スポーツは無理と思っていたら、親からすりこまれていただけだったようです。
教え方がよかったのだと思いますが、何をやってもすぐに上達しておもしろくなりました。
とくに、テニスは、仕事が終わってから日没まで、毎日のように練習しました。
男性の中でやっていたので、うまくなりました。
9月になって、大学のクラス旅行で、軽井沢に行きました。
そこで、テニスをしたのですが、その頃にはうまくなっていたので、私のイメージをかえることができたようです。
メイクとかファッションに興味のない学生ばかりのなかで、夏休み中に、メイクしたりするようになって、違うグループの子からも声をかけてもらうようになりました。
私が、ぜったいに仲良くなれないと思っていた、クラスの中心にいるグループに入ることができました。
迷いはあったけど、前期のグループにいたらダメだと思って、違うグループに入ることにしました。
これは、生徒によく話すことです。
友人のおかげで、大学を卒業することができました。
後期になって、仲良くなった子は、世話好きな子でした。
何も言わなくても、ノートを見せてくれたり、貸してくれたり。
いなかったら、代返をしてくれたり。
テストのときも、まわってきた答えを見せてくれたりしました。
男子グループとも仲良くなれました。
男子が、まじめな女子から借りたノートやレポートを見せてもらうことができるようにもなりました。
テスト前になると、まわしてくれました。
女子には貸さないけど、男子には貸すんだなと思ったのを覚えています。
女子から、休んでいるとき、このレポートがでたよって教えてもらったことが、男子から聞くと、「それ書いたらダメって言ってた内容」と言われたこともあったり。
結局、何も言わなくても、まわりがやってくれて、無事に卒業しました。
落とした単位もありましたが。
うちの大学は、岐阜大からきている非常勤講師も多かったです。
前期の単位だけとれればよかったので、嫌いな先生だし後期はとらないと決めていました。
なんとその先生、後期の仕事がなくなるから、多くの生徒を不可にしました。
結果、みんなが後期の授業もとることになりました。
そんな先生が何人かいて、私もその中に入りました。
通年ものの授業は再履修せず、次の応用の授業をとりました。
同じ岐阜大の先生でしたが、授業もおもしろく、いい先生でした。
その後、数学のレポートとかゼミの課題をやってもらえたので、その先生のおかげでゼミの単位もとれました。
卒業後も、採用試験の勉強に付き合ってくれたりしました。
単位をおとさなければ出会えなかったので、落としてよかったなあと思っています。
何でもそうですが、大事なものほど一度捨ててみた方が手に入れられるのだと思います。
なにがなんでも・・・と力を入れていると、うまくいかないことがあります。
一度捨てて、力を抜いたらできることもあります。
大学で、最初にいたグループで、3回生の後半ぐらいから、そのグループ内でいじめがありました。
いじめられている子をさそったりしましたが、そのグループから出れず、最後は大学に来なくなってしまいました。
そのグループに固執していたら、自分もそうなっていたかもしれないなあと思いました。
狭い枠にとらわれず、自分の枠を広げれば、人生が変わります。
そういう意味では、無理矢理アルバイトをさせた父や叔母に感謝です。
でも、父の方は後悔していたかもしれません。
その後、かわってしまった私を見て、心配が絶えなかったので。
箱入り娘が、箱を蹴破って、親の思い通りにはならなくなったので。
県営の公共施設で、公務員ばかりでいいイメージを持っていたのかもしれませんが、働いているのは体育会系の短期バイトの学生ですから。